『二期会イタリア歌曲研究会の歴史⓪』 鴨川太郎 (2012年)
振りかえれば、1985年9月に創設されて以来、二期会イタリア歌曲研究会の活動も30年になんなんとしてい
る。この長く地道な研究とその成果発表の歴史、決して平坦であったとは言えない紆余曲折の歴史は、ある種の感既
をもって記されるべきものである。またそれは、本会に関わられた先人たちの労に報い、後進の方々へのよき道標と
なることを目的としている。
そもそもの始まりは、私たちの永遠の指導者であり、本会の主宰者である嶺貞子先生が、二期会内に設けられてい
た「日本歌曲研究会」に触発され、イタリア歌曲を研究するグループの立ち上げを、高橋大海先生に相談されたこと
であった。(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史①』鴨川太郎
1985年9月に発足したイタ研が、最初に研究発表会を開いたのは、発足2年後の1987年9月7日であった。まだ二期会会館が代々木にあった頃のことである。
その日、二期会会館の第1スタジオには大勢の聴衆が集まったという。講師にかのウバルド=ガルディーニ先生を迎え、人々の関心は、ガルディーニ先生の一挙手一投足に向けられた。
先生はイタリア・オペラの発音指導者として国際的な活躍をされた方で、メトロポリタンやコヴェントガーデンを中心に錚々たる大歌手たちを育て、数多の録音や実際の舞台制作に関わって来られた。コヴェントガーデンの副指揮者として、コリン=デイヴィスに絶大なる信頼を寄せられていたが、その職を辞して、当時は東京藝術大学の客員教授として、日本人のオペラ歌手育成に心血を注いでいらっしゃった。(参照:マーリ=マイヤスコウ著
中矢一義・藤田茂 訳『イタリア・オペラを支える陰の主役ウバルド・ガルディーニ Preparing an Operatic Role』開成出版 2007年)
ディクションのみならず、イタリア音楽の伝統全般に精通していたガルディーニ先生には、大学院の授業やプライベートなレッスンで、筆者も多くのものを学ばせていただいた。それで、先生の博識ぶりや、強烈なお人柄などもある程度理解しているつもりでいる。
1987年のイタ研・第一回目の発表会が不成功であったということも、想像に難くない。先生の発音や音楽への執拗なこだわりは、初対面の受講者への公開レッスンという形式では、なかなか埒が明かない。
というのは、古代ギリシア・ローマに端を発するイタリア詩の体系的な韻律法、伝統的なイタリア語の朗唱法、イタリア的なる音楽構造の捉え方など、ガルディーニ先生にとっての基礎的な部分を受講者が共有していない場合、その辺りの説明または特訓から始まるからである。また、外国人には判りづらい発音のディテールヘの執着も、当然のことながら尋常でなく、しかもそれらが画一的ではない。同じ言葉であつても、状況に応じて生じる微妙なニュアンスの差異が要求される。妥協はない。
例えば、 “sposa"という言葉の “SPO- "の言い方(歌い方)やタイミングが、先生の示されるお手本と寸分たがわぬものになるまで“No!"の連発である。 1時間のレッスンで、アリアの冒頭数小節だけしか見ていただけないこともある。
しかも、大勢の見知らぬ聴衆に取り囲まれてとなると、先生のテンションは弥が上にも高められ、レッスンの進行は甚だ滞りがちであったことが、目に浮かぶようである。
ガルディーニ先生のスタンスは、あらかじめ決められた分量のものを制限時間内にうまく配分して教えるという教授法ではなく、できないものをできるように固めてから先へいくという方式だった。煉瓦を一つ一つ積み上げていくような、まさに、 “ローマは一日にしてならず"を地でいくような方だった。
ガルディーニ先生は少し前から、長年住まわれた祖師ヶ谷大蔵のお宅を後に、療養のためイタリアのポッジョ・レナーティコに移られていたが、昨年11月の末、遂に天に召された。献身的な奥様の佐久間黎子さんに看取られて。合掌。(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史②』 鴨川太郎
前宣伝よろしく、50人近い聴衆を集めて開催されたイタ研の第1回研究発表会(ガルディーニ先生の公開レッスン)ではあった。だが、美しく打ち上がるはずだった花火は、結果としてガルディーニ・ショックとでも言うべき、不発と暴発の連続で終わったようである。
その後、嶺先生も一時的ではあるにせよイタ研を退会されてしまった。まさにイタ研は空中分解の様相を呈していたのだが、それでも3年間は、古楽を中心に毎月例会を開き、毎秋一回の演奏会を開き続けていたようである。
しかし、それも1990年11月7日、新宿・角筈区民ホールで開催された有村祐輔先生の企画・構成による『バロック期のイタリア声楽曲の夕べ』をもって、しばらく対外的な演奏は休眠状態になってしまう。
この演奏会『バロック期のイタリア声楽曲の夕べ』では、芝崎久美子女史のチェンバロと弦楽アンサンブル【Vn.:小野萬里/高岡真樹;Va-da-gamba:中野哲也(敬称略)】によって、Caccini : Amarilli, mia bella ; Carissimi : Vittoria, mio core! ; Cesti : Intorno all’idol mio ; A.Scarlatti : Già il sole dal Gange ; Monteverdi : Come dolce hoggi l’auretta (三重唱); Bel
pastor (二重唱) ; Lidia spina del mio core (三重唱) ; La pastorella (三重唱) などが次の諸氏によって歌われた。
荒川美代子/伊崎燁子/榎本玲子/大志万明子/小川玲子/荻田和美/佐藤麗子/橘 静香/中村瑞枝/
丹羽勝彦/本間雅子/三宅淑子/安井えい子/安田宗弘/横内園子(敬称略)
*上のチラシにあるとおり、この時期のイタ研は、「二期会イタリア古典声楽研究会」の名称で活動していた。
本会の求心力として、また厳しい監修者として、嶺先生がイタ研に復帰されたのは、この演奏会の直後であった。
「二期会」の名を冠する研究会として安定した演奏水準を保つためにも、そして、古今のイタリア歌曲に精通していらっしゃるという点でも、嶺先生の復帰はイタ研内外から強く望まれていた。嶺先生もその要望に応え、イタ研の屋台骨となることを決心されたのだった。(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史③』 鴨川太郎
嶺先生がイタ研に復帰されて、およそ3年半の後、新生「二期会イタリア歌曲研究会」は最初の演奏会を催した。
1994(平成6)年4月18日、北とぴあつつじホールにおいて開かれたこの演奏会は、今日26回目になんなんとする「近代イタリア歌曲のタベ」シリーズの記念すべき第1回目となつた。
その日は嶺先生の企画・構成で、多田聡子女史と鳥井俊之氏のビアノに乗せて、次の錚々たる諸氏がレスピーギ(Ottorino Respighi, 1879-1936)、チマーラ(Pietro Cimara,1887-1967)、モルターリ(Virgilio Mortari,1902-1993)の歌曲を歌った。
青戸知、荒川美代子、伊崎倖子、鈴木寛一、中村好江、丹羽勝彦、松崎八重子、嶺貞子、三宅淑子、妻鳥純子、
安井えい子 (五十音順・敬称略)
言うまでもなく、レスーピーギは近代イタリアにおける芸術歌曲(リーリカ)の分野に大きな足跡を残した「80年世代Generazione dell'ottanta Jの一人であり、チマーラはサンタ・チェチーリア音楽院時代にレスピーギに師事し、その作曲技法の多くを受け継いだ歌曲作家でありオペラ指揮者であった。
一方、モルターリは、レスピーギと同様、「80年世代」のビッツェッティに師事したミラネーゼではあるが、1940年以降サンタ・チェチーリア音楽院の教員となった。他の2人に比べれば、モルターリは幾分若い世代ではあるが、ローマのサンタ・チェチーリアに関係したという共通点がある。
そのことに絡め、嶺先生は当夜のプログラムに次のような文章を寄稿されている。
「…… (前略)……
世界的なイタリア歌曲の権威であられ、私の師でもあられたG.ファバレット先生(1902~1986ピアニスト、作曲家)もまたサンタ"チェチーリア音楽院の教授でした。
今夜、はからずも同音楽院にかかわった二人の作曲家に出会って、私の心は師への思いに駈られ、一種の郷愁に似たなつかしさを憶えています。」
*チラシは白地にグリーンの単色印刷でB5サイズ、プログラムはB4サイズのコート紙を三つ折りにしたもの。やや厚手で上質なB5サイズの用紙7枚に、裏表コピーして綴じた手作りの【歌詞対訳】がプログラムに添えられた。
この初回の「近代イタリア歌曲のタベ」は、イタ研演奏会としては通算5回目に当たるわけだが、以後、通算19回目の演奏会まで、「近代イタリア歌曲」ばかりが取り上げられた。翌年の1995年は1回だけであったが、それ以降は毎年2~ 3回の割合で演奏会が開かれたので、この連続した15回の「近代イタリア歌曲のタベ」は、2000年の7月15日に東京文化会館小ホ-ルで催された「ソプラノによる近代歌曲の夕べ」(副題)まで、5~6年のうちに遂行されたことになる。(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史④』鴨川太郎
1994年以降20世紀中の、厳密に言えば西暦2000年7月までの、15回に及ぶイタ研演奏会「近代イタリア歌曲の夕べ」が取り上げた作曲家は、マスカーニ、トスティ、ブロージ、アルファーノ、ドナウディ、レスピーギ、ピッツェッティ、マリピエーロ、ザンドナーイ、カセッラ、サントリクィド、チマーラ、ゲディーニ、モルターリ、ダッラピッコラ、ペトラッシらであって、近代イタリアの主要作曲家がほぼ網羅されている。
この時期の企画・構成はほとんど嶺先生が単独でなさっているが、96年7月の「レスピーギの夕べ」や97年7月の「ドナウディの夕べ」などは、高橋大海先生と嶺先生のお二人で企画・構成がなされた。99年12月の「G.F.マリピエロの夕べ」では、嶺先生の監修の下、音楽研究家でピアニストの中村攝(金澤攝)氏がピアノの独奏に加えて企画・構成の任に当たっている。
また、この頃の演奏会は、東京藝術大学の独文学の檜山哲彦教授(当時は助教授)やバス歌手の若林勉氏などが訳詩を朗読しながら進行したり、バス歌手の小鉄和広氏や音大出で今や舞台衣装のデザイナーとして活躍中の倉岡智一氏らがステージングをする、演出面でもかなり練られた舞台が展開されていたようである。97年4月の「近代イタリア歌曲の夕べⅣ」では、テノール歌手で後に演出も手がけるようになった田中孝男氏が照明を担当している。
研究者の講演つき演奏会も散見される。96年12月の「レクチャーコンサート」では東京藝大の伊文学の畑舜一郎教授(当時は専任講師)がイタリア詩についてお話をされ、97年12月の「ダヌンツィオの詩による」では故・若桑みどり先生がスライドを使いながら、「世紀末の愛‐ダヌンツィオの世界」と題するお話をされた。99年4月には「ペトラルカの詩による歌曲の夕べ」で戸口幸策先生のご登壇を仰ぎ、同年12月の「G.F.マリピエロの夕べ」では音楽学者の高久暁氏(現・日本大学教授)がマリピエーロについて解説された。
1995年は、イタ研がほぼ毎年ホーム・グラウンドのように利用させていただいている東京文化会館小ホールでの演奏会が始まった年でもある。嶺先生が主宰される研究会の演奏ということでホール側の審査を通過し、2006年までは7月に、それ以後は9月にイタ研演奏会が定期的に開催されてきた。今年(2014年)は残念ながら改修工事のために東京文化会館での演奏会開催は見送られるが、来年以降は再び、この由緒ある音楽の殿堂で演奏会を続けていきたいものである。
九段のイタリア文化会館ホールは、20世紀中に2回使用させていただいた。現在のモダンな建物が2005年に竣工しているので、当時はまだファサードが全面蔦に覆われた旧い時代の建物だったはずである。ホールといっても現今のアニェッリホールとは比べようもなく残響の少ない、縦長で舞台もない「広間」という体のものであった。
その1回目は「ダヌンツィオの詩による」で、2回目は厳密にいうと近代イタリア歌曲だけの演奏会ではないが、「ペトラルカの詩による夕べ」であった。
筆者は留学から帰国したばかりで、イタ研の存在すらよく関知していなかった頃であったが、今になってその丹念に手作りされたプログラムを見ていると、個人的なある種の深い感慨を覚える。藝大在学中、昼なお暗い教室の中でペンライト片手に夢中でノートを取った、若桑みどり教授のあの授業のことがにわかに胸に蘇ってくる。ルネサンスやマニエリスムの、あるいは近現代の絵画をスライドを使って図像学的に読み解いていく、あの授業のことが。しかし、もう若桑先生と生きてお会いすることは叶わない。
なぜ筆者がその講演(演奏)会場にいなかったかが悔やまれてならない。そして素晴らしい演奏家たちの演奏をなぜ聴くことができなかったか、と無念さを感じてしまう。
恋愛詩の範例ともいうべき『カンツォニェーレ』をものし、後の世界に多大な影響を与えたペトラルカについて、戸口幸策先生より有難い講話をいただいた2回目の「ペトラルカの詩による夕べ」。その終演後、当時のイタリア文化会館々長マルケッティ氏がことのほか喜ばれ、その演奏会場だった広間に料理が運ばれ振る舞われたという。
このレクチャーコンサートの企画・構成補佐を担当し演奏もされた松崎八重子会員は、「かなり大勢のお客様がいらして、和やかで、大変貴重な演奏会だったと思う」と述懐している。
1995年から2000年までにイタ研演奏会に出演して歌われた方々は以下の通り。
青木美稚子 青戸知 荒川美代子 五十嵐郁子 伊崎燁子 石橋千里 板橋恵理亜 伊藤晶子 伊藤和子
井ノ上了吏 兎束康雄 海野美栄 大野英津子 大野徹也 小川玲子 金山道子 加茂下稔 高丈二 小鉄和広
小山あゆみ 酒井崇 作山玲子 嶋田郁子 鈴木寛一 関口幸江 背戸裕子 五月女智恵 永尾和子 中村瑞江
中村好江 丹羽勝彦 橋本エリ子 服部久恵 早川圭子 松崎八重子 三津山和代 嶺貞子 三宅淑子 弥勒忠史
村上洋子 村田由紀子 村松織部 安井えい子 若林勉(50音順・敬称略)
伴奏を担当されたピアニストは、落合茂、左近允亜紀子、多田聡子、鳥井俊之、平塚洋子、山岸茂人、山田武彦の諸氏。
また、96年の「レスピーギの夕べ」では、ポエメット《夕暮れIl tramonto》を上演するに当たり、岡山潔教授を第1ヴァイオリンとする弦楽四重奏団(他のメンバーはVnⅡ:荒井友美、Va:安藤裕子、Vc:土田寿彦の各氏)も登場した。
(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史⑤』鴨 川 太 郎
前号で見たように、20世紀末の7年間、イタ研の演奏会は「近代イタリア歌曲」一色であった。
ところが、世紀を跨いだ2001年以降、イタ研には「古くて新しい」潮流が巡りだした。「オリジナルによるイタリア古典声楽曲の夕べ」である。
音楽大学などで学生が声楽の教科書として使っている「パリゾッティ版」ではなく、旋律と数字付き低音しか書かれていないバロック期前後の一般的な原譜を読み解いて演奏に結びつける、という研究を始めたのだった。イタ研の草創期には有村祐輔先生のご指導の下、バロック時代のイタリア声楽曲による演奏会を2~3回催しているので、より厳密には「再開」と言った方がいいかもしれない。
その本格的再開の記念すべき第1回目(イタ研演奏会としては通算21回目)は、イタ研が旧東京音楽学校奏楽堂で重ねてきた9回の演奏会(古典声楽曲以外も含む)の第1回目にもあたる。
旧東京音楽学校奏楽堂は、東京藝術大学音楽学部内に廃屋同然で残存していたものが、昭和62年に台東区の肝煎りで上野公園内へ移築され、日本最古(明治23年創建)の木造洋式音楽ホールとして甦り、国の重要文化財にも指定されたものであった。
多くの演奏家や聴衆が出入りしたこの歴史的空間も、移築以来四半世紀を経て老朽化が進み、この4月からは長期休館となってしまった。休館と聞いて初めて、そこで演奏者として演奏し、聴衆として客席に座っていた自らの実体験をふりかえり、何とも寂しい気持ちでいっぱいになる。この奏楽堂が藝大内にあったころ、解体廃棄か存続かで政府と藝大の間で論争が起こり、学長はじめ諸先生方が「奏楽堂は永遠なり」と奏楽堂を死守した意義が、改めてひしひしと感じられる。
さて、この歴史的空間で始まった「オリジナルによるイタリア古典声楽曲の夕べ」シリーズは、ピアノと歌い手だけのステージとは趣を異にし、常に古楽器のアンサンブルが舞台に乗る賑やかなものとなっている。2007年までに旧東京音楽学校奏楽堂で5回行った「オリジナルによる」イタ研演奏会は、お山に桜の咲くころをねらって毎回4月に開催された。(実際には、桜が散って新緑が萌え初めるころ、と言った方が正しい気がするのだが。)
以下、その5回の演奏会に出演した演奏家名を記して、その業績を称えたい。(出演者氏名はチラシの記載順。敬称略。)
「オリジナルによるイタリア古典声楽曲の夕べ」(Ⅰ)
2001年4月6日(金)【企画・構成:嶺貞子 アドヴァイザー:有村祐輔】
嶺 貞子 大野徹也 古泉南海 小出京子 小鉄和広 作山玲子
五月女智恵 松崎八重子 水野由紀子 村松織部 妻鳥純子
Cemb.: 坂 由理 Va.da gamba: 桜井 茂 Vn.:小野萬里・小原康子
Va.: 渡部安見子
「ヴェネツィアからナポリへ」
2003年4月16日(水)【監修:嶺 貞子 企画・構成:小鉄和広】
嶺 貞子 五十嵐郁子 石原友利子 金山道子 小出京子 嶋村友美
鈴木マチ子 松永知子 村松織部 堪山貴子 行天祥晃 酒井 崇
小鉄和広
古楽器アンサンブル〈コーヒーカップ・コンソート〉
Cemb.:大塚直哉 Vn.baroc.:大西律子 Va.baroc.:深沢美奈
「モノディからヘンデルへ」
2004年4月7日(水)【監修:有村祐輔 企画・構成:嶺 貞子】
嶺 貞子 鈴木寛一 吉川具仁子 辻 裕久 伊崎燁子 石原友利子
板本 緑 堪山貴子 酒井 崇 関口幸江 渡邉公実子
Vn.baroc.:渡邊慶子 伊佐治道生 Va.baroc.:天野寿彦
Va.da gamba:桜井 茂 Fl.Dolce:太田光子 Cemb.:岡田龍之介
「モノディからA.スカルラッティへ」
2005年4月22日(金)【監修:嶺 貞子】
嶺 貞子 石原友利子 沖野初美 堪山貴子 木村満寿美
木村美代子 佐藤由子 鈴木マチ子 松崎八重子 三津山和代
酒井 崇 辻 裕久 宮本英一郎
Vn.baroc.:小野萬里 中丸まどか Fl.dolce:太田光子
Va.da gamba:桜井 茂 Cemb.:坂 由理
「バロック・ヴェネツィア楽派の調べ」
2007年4月13日(金)【企画・構成:有村祐輔 監修:嶺 貞子】
嶺 貞子 伊崎燁子 石原友利子 堪山貴子 木村美代子 小出京子
越野麗子 丹羽理英子 飯島由利江 芝 泰志 酒井 崇 辻 裕久
Vn.baroc.:渡邊慶子 庭山由記美 Va.baroc.:原田純子
Vc.baroc.:高橋弘治 Cemb.:岡田龍之介
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史⑥』鴨川太郎
21世紀に入って、「オリジナルによるイタリア古典声楽曲のタベ」シリーズが始まり、2001年から2007年にかけて5回の演奏会が催されたことを前号で確認した。
しかし、その間にも近代歌曲の演奏会はしばしば開かれているのだが、イタ研の演奏歴一覧を眺めていると、「古典」にも「近代」にも括ることのできない、あるいは括りのない演奏会が目を惹く。
2001年7月14日の「イタリア四大作曲家による歌とアンサンブルのタベ」、2002年5月13日の「ロマン派~近代歌とアンサンブルのタベ」( ― 二期会創立50周年記念30日連続演奏会 一 )、同年12月の「愛と安らぎの時を求めて」(クリスマスコンサート)、2004年7月3日の「私の好きなイタリアの歌」(~
嶺貞子、高丈二、鈴木寛一、丹羽勝彦先生方の退官を記念して~)などである。
以下、これらの演奏会の概要を見てみよう。
まず、東京文化会館小ホールで行われた「イタリア四大作曲家による……」は、嶺先生の企画・構成、現在では国立音楽大学の副学長になられた花岡千春氏のピアノによって全曲が演奏された。四大作曲家とは、言うまでもなく、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディのことだが、彼らが活躍した時代はちょうど古典(バロック)と近代の狭間であり、これをもってイタ研演奏会もイタリア歌曲史のほぼ全部を網羅したことになる。ただ、嶺先生の心のうちでは、ヴェルディ以後とレスピーギら「80年世代」の作曲家たちの間を埋める部分が、演奏会の企画としてまだ取り上げられていないことに物足りなさを感じていらっしゃった。それは以下のような当日のプログラム・ノートから読み取れる。
『(前略)・・・・近い将来「ヴェリズモオペラの作曲家たちによる歌曲」を取り上げたいと思っています。それで私どもの研究会も、おおよそイタリア歌曲の歴史 ~古典から近・現代~ を歩んできたことになるでしょう。』
実際、この計画は翌々年の2003年7月14日、同じく東京文化会館小ホールで、嶺先生による企画・構成の演奏会「ヴェリズモオペラの作曲家による歌曲とその周辺」として実行された。(さらにその2年後には高丈二先生の企画・構成による「ヴェリズモオペラの作曲家による歌曲とその周辺Ⅱ」が文京シビックホール小ホールで開催されているが、これについては後に触れることとする。)
話はまた2001年の「四大作曲家」に戻るが、そのプログラムには戸口幸策先生も寄稿されていて、その中で四大作曲家のイタリア歌曲史における位置が端的に言明されているので、以下に一部引用させていただく。
『(前略)・・・・19世紀には、ドイツのリート、やがてはフランスのロマンスやメロディの創作が盛んになり、歌曲の分野では、イタリアの作曲家の活動は蔭に追いやられたかのようでした。少なくとも日本の西洋音楽史ではそのように教えられてきました。
しかし、劇場ですばらしい人間の声を聴かせたイタリア人に、優れた歌曲が創れなかったはずがありません。今夕の作曲家は、いずれも、ほとんどオペラの人としてのみ -その評価は非常に高いとしても一 知られていますが、このコンサートをお聴きになれば、彼らの歌曲がいかに多彩で魅力に溢れた音楽であるかがよくお分かりになることでしょう。これらの歌は、やがて20世紀のリーリカの発展にも繋がってゆくものでした。……(後略)
〔文中の「リート」「ロマンス」「メロディ」「リーリカ」は各国の近代的な芸術歌由の呼称:引用者の注〕
四大作曲家の歌曲作品は、やはリオペラ・アリアを彷彿とさせるものが多いので、歌唱者には相当なベルカントの技量が要求される。その任を全うし見事に演唱されたのは次の方々。
青戸知 岡崎智恵子 行天祥晃 竹内宏佳 土屋弘二郎 畑美枝子 林満理子 藤崎純子
三津山和代 嶺貞子 村上洋子 妻鳥純子 (50音順・敬称略)
演奏曲目は以下の通り。
Rossini:《ヴェネツィアの競艇 La Regata veneziana》《セレナータ La serenata》《漁 La pesca》
《猫の二重唱 Duetto buffo di due gatti》《水夫たち I marrinai 》(以上、二重唱)
《約束 La promessa》《恨みIl risentimento》《スペインのカンツォネッタ La canzonetta spagnolo》
《誘い(ボレロ) L'invito(Bolero)》《踊リ
La danza》
Donzetti:《アヴェ・マリア Ave Maria》(五重唱)《―滴の涙 Una lacrima》《私は家をつくりたい Me voglio fa'na casa》
《愛されながら愛に報いぬ者 Amor ch'a null'amato》
Bellini:《優雅な月よ Vaga luna,che inargenti》《私の偶像よ Per Pietà,bell'idol mio》
Verdi:《御覧、なんと白い月だろう Guardα che bianca luna》(三重唱・フルート付)
《寂しい部屋で In solitaria stanza》《私はやすらぎを失い Perduta ho la pace》《墓に近寄らないでほしい
Non t'accostare all'urna》《乾杯
Brindisi》《アヴェ・マリア Ave Maria》《ストルネッロ Stornello》
なお、この演奏会では、ヴェルディの《夜想曲 Notturno》(=《御覧、なんと白い月だろうGuardα che bianca
luna》を演奏するために、フルート奏者の立花千春女史が出演された。また、ドイツ文学の檜山哲彦・東京藝術大学教授(当時・助教授)や目下ドイツでオペラ歌手として大活躍中の橋本明希女史(当時・東京藝術大学大学院修士課程在籍中)が各曲の訳詩を陰マイクで朗読する、賑やかかつ奥行きのある舞台であったと聞く。(つづく)
『二期会イタリア歌曲研究会の歴史⑦』 鴨川太郎
2002(平成14)年は、われわれの親団体である「二期会」にとって特別な年だった。
三宅春恵、川崎静子、柴田睦陸、中山悌―の各氏ら東京音楽学校の出身者たちが、すでにあった「オペラ研究部」を母体として、1952年に声楽家集団「二期会」を結成した。同年2月末のプッチーニ作曲《ラロボエーム》が、正式な旗揚げ公演となった。
先人たちのオペラ活動を第1期とみなし、自分たちこそが次代(第2期)を担うものであるという気概、これが「二期会」の名の由縁である。
1977年に「財団法人二期会オペラ振興会」が設立された後も、任意団体としての「二期会」は存続したが、2005年に法人に吸収され、現在は「財団法人三期会オペラ振興会」の後継団体である「財団法人東京二期会」(現「公益財団法人東京二期会」)の中の声楽会員組織として収まっている。
法律上の組織としての経緯はさておき、われわれの先生方(あるいはそのまた上の先生方)が始められた声楽家集団「二期会」は、2002年に創立50周年を迎えた。その記念すべき祭典の一つが、同年5月7日から6月5日までの30日間、サントリーホールの小ホール(現・ブルーローズ)で連日開催された。題して「30日連続演奏会」。6月5日の最終日には「二期会歌手50名勢ぞろい」と銘打った、盛大なグランドフィナーレが催されている。
この「30日連続演奏会」のラインナップを見てみると、二期会の錚々たる声楽家たちによるソロ・コンサートやドゥオ・コンサート、トリオ・コンサートの合間を縫って、主だった6つの二期会研究会もそれぞれ―夜ずつ担当したことが分かる。
われらが「イタ研」は、5月13日(月)19時より、「ロマン派~近代歌とアンサンブルのタベ」という副題の下、嶺先生の企画・構成でこの大イヴェントを一層華やかなものにした。
当夜の演奏会の豪勢な出演者とプログラムを以下に記して、遅まきながら、喝采を送りたい。
ソプラノ:五十嵐郁子 五月女智恵 永尾和子 服部久恵 嶺貞子
メゾ・ソプラノ:堪山貴子 三津山和代 妻鳥純子
テノール:加茂下稔 行天詳晃
バリトン:今尾滋
バス・バリトン:丹羽勝彦
ピアノ:鳥井俊之 山岸茂人
(敬称略・50音順)
ロッシーニ:《音楽の夜会》(4っの2重唱)〈踊り〉
ヴエルディ:〈ストルネッロ〉〈ご覧、なんと白い月だろう〉(3重唱、フルート付)
トスティ:〈夢見て、夢見て、ああ愛しい母さん!〉〈暁は光から闇をへだて〉
ザンドナイ:〈みみずく〉
マスカーニ:〈バルラータ〉
アルファーノ:〈かあさん王子様が〉
レスピーギ〈霧〉〈舞踏への誘い〉
モルタ-リ:〈カンティレーネ〉(2重唱) 他
(つづく)